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2008年3月10日(月)放送(第331話)
『ますのすし』

全国駅弁の中で、人気ランキングでいつも上位に選ばれている「ますのすし」。
これほど馴染みがあって、よく食べられている「ますのすし」ですが、その歴史を知る人はほとんどいません。今回は「すし」の歴史をひも解きながら、初めて作られたのは、いつ頃なのか?なぜ、今のような笹をひき、わっぱで丸く作られるようになったのか?などをリサーチしました。

富山の歴史の中で最初に「ますずし」という言葉がでてくるのは、鵜坂神社でのある出来事でした。京の都からの勅使に、お土産に「ますずし」を献上したといわれています。ただし、その頃は、「なれずし」というもので、鱒にはご飯がついていないものでした。

室町時代には、すしはご飯と一緒に食べる「なまなれ」へと進化していきました。その食文化は富山にも伝わっていて、江戸時代には富山藩第3代藩主前田利興の家臣、吉村新八が8代将軍徳川吉宗に鮎ずしを献上し、大絶賛を受けたと言われています。
この「鮎ずし」は神通川で捕れた鮎を塩につけ(20日間)、江戸へ運び、そこで塩出しをして酒で洗い、固めに炊いたご飯と塩に漬け込む。その期間は12日間ほど。将軍に献上する前日に鮎だけをとりだし、新しいご飯に酒と塩を加えたものを献上していたと記録されています。
熟成した鮎に新しいご飯を合わせていることから、この押しずしであった「鮎ずし」が今の「ますのすし」のルーツと言えるかもしれません。

江戸時代には、富山の「鮎ずし」、「ますのすし」はすでに全国で有名になっていました。
十返舎一九が「東海道中膝栗毛」の連続もので書いた「金草鞋(かねのわらじ)」の中に、「弥次さん喜多さんが立山登山の途中に神通川のほとりのお茶屋さんの前を通ると、道端に人のほっぺたが落ちている。どうしてかとお店の中を見ると、「鮎ずし」を食べたお客さんがあまりにもおいしくてほっぺたを落としていた。」という記述があります。江戸にいた作者が知っていたほど、「鮎ずし」は有名であったと考えられます。実は、ここに売薬さんの存在があります。今のような広告媒体がある時代ではないのですが、全国を回っていた売薬さんが富山の自慢話の中で必ず、「神通川の鮎ずし・ますのすしは美味しいんだよ」と口コミで全国に広がっていったものと考えられます。

明治22年発行の「中越商店便覧」の中に、七軒町の「鱒・鮭・鮎酢」のお店が紹介されています。その絵の中には、大きな桶が描かれています。この時代はまだ、江戸時代の食文化が残っていたので、「なれずし」もしくは「なまなれ」と考えられます。
明治42年発刊の「富山名所」には、その当時の富山駅の版画があります。そのプラットホームには明らかに現在の「ますのすし」の形態のものが描かれています。(中身は「鮎すし」だった可能性もあります。)
このことから、今の曲げ物を使った早ずしである「ますのすし」は明治30年代から40年ごろには完成していたのでは、と想像できます。

この形、実は、とても理にかなっているのです。笹をひくことで消臭、殺菌の効果があり、中蓋で押して外気と遮断することで、おすしの旨みである乳酸菌の発酵を早め、カビがはえにくい、保存性が高い、というものです。また、笹の緑、白いごはん、ピンク色の鱒の身と色合いがいいことも特長といえるかもしれません。

それでは、どうして今の曲げ物の形態になったのでしょうか?
明治9年頃の富山市の人口は全国で第9位の大都市でした。そのうち、約65%は売薬産業に携わっていたといいます。売薬さんの薬の中に曲げ物を使ったものがあります。練り薬(ペースト状の舐め薬や、塗り薬)が入っていました。そのことから、富山には優秀な曲げ物師が多くいたものと考えられます。明治後期になるとその曲げ物の容器がブリキへと変わり、曲げ物は食品産業の加工品などの入れ物として使われ始めたと考えられます。
富山ブランドとして全国に名を馳せている「富山売薬」と「ますのすし」は、江戸時代から、密接な関係があったと考えていいのではないでしょうか?